固定観念はぶっちゃけ邪魔だったから3年前公務員の身分と一緒に捨ててきた。

こんにちは、まなとです。

今回は、

『固定観念はぶっちゃけ邪魔だったから3年前公務員の身分と一緒に捨ててきた。』

という話です。

ちなみにこのタイトル、最初は

『社会不安障害の僕が警察官を3年間続けた理由』

というタイトルにしようとしてました。

僕、一応元公務員で、高校卒業してから3年間、警察官として働いてたんですよ。

で、3年の節目にやめてしまったわけなんですけども、それまではいくら苦しい状況でもなんとか続けるぞって、ふんばっていたわけですね。

「いやいや、3年とかめちゃ短けぇじゃん。そんなんでいばんなし。」

って思われる方もいると思いますが、そこじゃないんです。

その3年間という「期間」に注目しないでください。

そこはぶっちゃけどうでもいいんです。

あくまで今回伝えたいのは、

「社会不安障害でもこんな考え方してたら、いくらきつい仕事でも少なくとも3年間は仕事続けられるぜ」

って、いう話ではなくて、

「あなたをしばりつける固定観念を捨てれば、大分楽になるよ」

っていう話になります。

つまり、これから僕が順に挙げていく

「警察官を続けた理由」

というのは、

「僕が持っていたいまわしき固定観念」

とも言えます。

それでは早速あげていきますね。

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まず、前もって言いたいのは、夢の力は相当強いということです。

夢があるからこそがんばれたりします。

夢があって夢中になっている人って、良い意味で病的というか、ふんばって突き進む力があるんですよね。

で、僕も学生の頃からずっと抱いていた夢があって、それが警察官でした。

なれた時は本当に嬉しかったし、人生でこれまでになかったくらい心がおどりました。

だからこそ、いつか途中でやめようとは思えなかったんですね。

ただ、時にこの夢の力はやっかいなんです。

報われない環境の中ですらがんばらせてくれるんですから。

例えるなら、体力がとっくに切れているのにリタイアさせてくれないマラソンみたいな感じです。

走り続けてもゴールはまだまだ先で、しかもかなーりしんどい。

僕も警察官になること以上に警察官として活躍することが夢でしたから、メンタルボロボロになりながら長ーい道を走り続けました。

今思えば、全然ムリして走り続ける必要なかったんですけど、

「ここで諦めたら自分の夢が終わってしまう。」

「警察官であることが自分の幸せなんだ。。。」

そんな風に思えてしまって、中々あきらめきれなかったんです。

本当はいくらやりたかったことでも、実際やってみてちょっと違ったなと思えばすぐ見切りをつけた方が時間も浪費せずにすむし精神を削る必要もないし、失うものが少なくなります。

その見切りのタイミングを隠してしまうのが、やっかいな夢の力と言えますね。

憧れ

僕には警察官の頃、憧れの先輩や上司がいました。

  • 仕事をテキパキしてなんでもすぐ片付ける先輩。
  • 現場で物応じせず真っ先に出ていける先輩。
  • 不器用だけど真面目で、信頼を集める上司。

本当にたくさんの憧れの存在が僕の周りにいました。

さっきの夢の話に近いんですけど、そんな先輩や上司にいつかなりたかったんですね。

だから、警察官を続ければ、いつかカッコいい先輩や上司の様になれる。

その思いは強くありました。

しかし、最終的に感じたのは自分の限界でした。

「こんな病気に苦しんでる今の自分じゃ、到底追いつけない。」

それをさとったんですね。

何かを目指し続ければ、いつの間にか追いついていることだってあります。

でも環境や能力の問題は大きいので、それを解決しないことにはどうにもなりません。

届かない目標にいつまでもすがっている方が、実は前を進めないんです。

だから、目標は遠くのものに設定するんじゃなくて、少しだけがんばれば届くとこに設定するのがいいと今は思います。

責任感

仕事をする以上、どうしても責任は伴います。

特に、自分の役目や持ち場が特殊な場合や固定の場合は、その責任を感じずにはいられません。

僕の場合は、警察官時代小さく人数が少ない警察署に所属していました。

そのためまだ下っ端でしたが、自分がいなくなることで負担が周りにかかってしまうという意識が強く、ちゃんとした病気で休むときさえ自分の持ち場を離れてしまうようでうしろめたさがありました。

辞めるとなると尚更です。

自分も一端の警察官として現場に出て不器用ながらにでも一応仕事はしてんだからと、意地に似た責任感がありました。

さらに、自分に仕事を教えてくれた人達がいる場所なので、せっかく教えてくれたのに、辞めることでムダにしてしまうような気がして、申し訳なさも感じました。

しかし、自分の人生が悪い方向に向いたところで、その責任を取れないのもまた自分の周りにいる人達です。

結局は自分の人生は自分次第。

なので変に背負わずに、辞めるギリギリまで礼儀を尽くして仕事をすれば、もうそれでいいんだと思います。

誰かからの期待

責任感に似ていますが、誰かがいて、その誰かのことまで考えるからこそ足かせになりやすいのが期待です。

わかりやすいのは家族の期待ですよね。

家族から期待されて仕事につくと、どうしてもやめたいなんて相談できなくなります。

僕も警察官時代親にはかなり喜ばれましたし、父親は警察官である僕を誇って周りに人によく話していました。(これをされると余計つらい。)

僕はやめるギリギリまで父親にやめることを伝えなかったのですが、やめることが確定してから伝えた時は言葉を失っていました。

僕はすごい申し訳ない気持ちになりましたが、家族であろうと友人であろうと期待した分の責任なんてありませんから、他人からの期待は気にせずに自分の思うようにやればいいと思います。

期待する人はリスクなくできますが、実際にやる側の人は人生が左右される程のリスクを背負うことだってありますからね。

自分の責任で自分で決めて、自分の人生を作って行く。

そう決めてしまえば、誰のせいにすることもなく、誰に左右されるでもなく生きていけるので、僕はそう決めました。

見栄やプライド

これはけっこうシンプルですよね。

単に、一回始めたんだからやめたらかっこわるいとか、夢を叶えようとしたのに挫折したんじゃ負け犬みたいだとか、そんな感情です。

この感情も、自分が充分実力発揮できる状態、環境であれば活きてくると思いますが、そうじゃない場合はただの強がりです。

僕は周りにも俺警察官になるって言ってきたし、やめるなんてかっこわるすぎて言えなかったです。

自分は警察官なんだから!

という謎の自信があったというか。

それ以外のところでは自信なんてこれっぽちもなかったのに、自分が警察官であることが唯一自分の自信だったというか、とにかく自分=警察官というのにこだわりがあったんだと思います。

ただこれも今思えば、警察官を隠れミノにして自分の自信の無さをかくしていただけで、中身は空っぽのプライドだったなと思います。

警察官をやめて、隠れミノから体を出さないといけなくなかった僕は、やめた直後はしばらく不安にさいなまれましたが、結果としてやめたことで本当の自信というものが何なのか分かった気がします。

何かに依存しても、その何かが本当の自信をくれることはありません。

自信をくれるのは自分自身で、自分が何かするからこそそれが自信になっていきます。

また、自信っていうものが自分の中にイメージとして持てないなら、どんな状況でも自分を信じてみること、できなくても、そのできない自分をとりあえず信じて、できる分を全力でやってみること、それが自信なんじゃないかって思います。

世間体と安定性

これは、公務員であったので特に顕著だったと思います。

夢だったからこそ警察官になりましたが、言っても公務員ですから、そこは気にしていないはずがありません。

友人知人からはよく見られましたし、警察官でいるだけで周りからの期待にも応えられているような気がしました。

そして世間的にもよく言われるように絶対なくならない仕事ですから、生涯安泰とか、固い仕事とか、そうやって周りに言われるわけですね。

そう思うとどーしても、仕事をやめるのがもったいないことに思えてきてしまう。

だから、いくら苦しくても中々踏ん切りつけてやめるなんてできなくなるんですよね。

実際僕も、警察官以外の仕事はしたことありませんでしたから、警察官やめたあとのことは全く想像できず、とても悩みました。

やめたらどうなってしまうんだ?この先どうなるんだ?

この疑問は、警察官をやめてから社会不安障害を克服するまでつきまといました。

しかし、実際はどうにかなってるわけです。

ただの余計な心配でしたね。

それに、いくら経済的な安定性があっても、それが幸せであるとは限らない。

経済的な安定は幸せを支えるためのものでしかありませんから、実際自分がストレスを抱え、苦しみ、幸せを感じていないのなら、いくらお金があったところでそれはただあるだけです。

ここのところが逆転してしまっている人が多いと思います。

よっぽど貧しくない限り、お金は自分の幸福感をふくらませてくれるものでしかないので、そもそも最低限の幸福感を感じていないのであれば、ふくらませることはできません。

メンタルボロボロだった僕が、ずっと辛い思いをしたのも当然です。

そこに疑問を抱いたのが、僕が警察官をやめた一つの理由でもあります。

犠牲を払って保つ安定なら、ない方がマシです。

まとめ:固定観念は一見前向きなものもあるが結局邪魔になる

以上、僕が警察官を続けれた理由を挙げてみました。

挙げたものは全て当時の僕の頭に当たり前のものとして存在したもので、その真偽を疑う余地すらありませんでした。

特に前半に挙げたものは、一見前向きなものばかりですが、それが本当に前向きな力として働くのは自分の状態が良好で、適切な環境にいるときだけです。

状況が状況であれば自分をしばり苦しめるものには変わりません。

自分が前向きなものだと思い込んでいるにすぎず、実際自分にとっては良く作用するものとは限らないんですね。

自分が一度固定してしまった分外しにくいですが、うまくいかない時は疑ってみるべきです。

そして、後半に挙げたものは、多くの人が持っていがちですが、持っていても仕方のない固定観念です。

ぶっちゃけ持っててもムダな、一生ついてくるような足かせみたいなもんだと思っています。

それがあることで、自分の行動力、行動範囲を制限されてしまい、自分の可能性の多くを知る機会を失うからです。

僕は警察官時代これらの固定観念にしばられ、動きを制限されて生活していました。

その結果得られるものはなにもなく、そのくせにムリをする力だけが働き失うばかりで、ボロボロになって足を引きずりながらもなお遠くのゴールを目指すような、そんな途方もない生活を送っていたように感じていました。

そして怖いのが、その時は自分が見えなくなっていたことで、自分の考えがどうかなんて考えなくなっていたこと。

つまり、先ほど挙げた固定観念を固定観念とすら思わず、信じきっていたことです。

「これが普通の考えだから。」

そう思って、自分をしばるものがあることに気づかず、その中から出ようともせずにいました。

しかし、今思えばあのとき持っていた考えの全てが、自分を変えるさまたげになるものでしかなく、僕から自由と可能性を奪うものだったんです。

警察官をやめる時、やっとそれに気がつけたことで、僕は今の生活があります。

あの時のようなストレスを抱えて生きることもなくなったんです。

だから、あの時自分が持っていた考えに疑念を抱けたことは、人生の流れを変えるファインプレーだったと思います。

今苦しみを抱えて生きている人、その苦しみは自分の固定観念が生み出した足かせのせいかもしれません。

そしてその足かせを取れるのは、誰でもなく自分です。

他人はきっかけをくれるかもしれませんが、自分の頭の中を変えるのは、自分以外の人にはできませんから。

ということで今回は、

『固定観念はぶっちゃけ邪魔だったから3年前公務員の身分と一緒に捨ててきた。』

という話でした。

それでは

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この記事を書いた人

はじめまして、よしです。

僕は小さな頃から極度のあがり症で、とにかく注目されるのが怖くて、日の当たらない生活を送ってきました。

社会人になり警察官になってからは症状が悪化してついには社会不安障害を発症し、苦痛な日々を過ごしました。

人目に出るのが怖い、
上司を話すとき頭が真っ白になる、
電話すらまともに出られない。

そんな警察官として致命的な症状が出た僕は、仕事でも失敗ばかりを繰り返し、最終的には警察官をやめざるをえませんでした。

そんな僕が、正しい向き合い方を知り、それを実践したことで、退職後3ヶ月のうちに社会不安障害を克服できました。

このブログでは、僕と同じ悩みを持っている方や、あがり症や社会不安障害を改善したいと願っている方の助けに少しでもなるように、
あがり症や社会不安障害を克服するための知識や情報を、自身の過去の経験を交えて発信していきます。

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