こんにちは、まなとです。
今回は、
『苗字が変わって価値観180°激変してしまった僕』
という話です。
まず、最初に言いたいのは、
「価値観が変われば今の悩みは悩みではなくなる」
ということ。
これは、僕が社会不安障害を克服してからスゴく思うことです。
結局、自分を気づつけるのは、自分の強烈な思い込みだったりするんですよね。
本来気にしなくてもことなのに、必要以上に気にしてしまっているようなことですね。
「これはこうじゃないといけない…」
とか
「自分はこうあるべきなんだ…」
とか、そういったこと。
でも、実際そんなに気にしなくてもいいことがほとんどです。
例えば僕は、中学生の頃苗字が変わる経験をしたんですけど、その時もけっこう葛藤がありました。
でも、苗字が変わってみれば、案外なんでもなかったな、って思えたんですよね。
今日はその時の体験を引き合いに、自分の考えを書いていこうと思います。
まったく自信がなかった僕の幼少期
僕は、子どもの頃は本当に大人しい子でした。
なるべくいつも目立たないように目立たないようにとふるまって、誰かのかげで生きてきました。
明確な理由もないんですけど、子どもの頃から自信がなかったんですね。
そんな感じだったので、
「自分が嫌い」
っていう感覚は、物心ついた頃からありました。
自分が嫌いだったけど、自分の名前だけは好きだった
そんな自分嫌いの僕でしたが、唯一自分の好きなところがありました。
それが名前と誕生日です。
誕生日はキリが良い日だったので好きっていう単純な理由なんですけど、名前に関してはちゃんと理由があります。
僕の名前は、僕の地元に縁のある戦国時代の武将の名前から取って、父さんがつけてくれたんですね。
僕の名前の由来になったその武将は、戦国時代の武将に珍しく悪い評価のない武将で、仁義を大事にしたことで知られてる武将です。
だから僕は、子どもの頃から自分の名前になんとなく誇りを持っていました。
中一の時、苗字が変わることに
しかし、ある問題が発生します。
僕が小学6年生の頃、両親が離婚したんです。
僕は母さんに引き取られ、苗字はキリよく中学入学後に変えることになりました。
これから呼ばれ方が変わる……
それ自体は仕方ないことなんですけど、自分の中でひっかかるものがあって、それがどうしても取れませんでした。
なぜなら僕の名前はさっき書いたように武将の名前から取ったものだったんですけど、
その武将は僕と同じ苗字を持っていたので、苗字と名前合わせて一つの意味になるようにつけられていたからです。
つまり、苗字か変わってしまえば、意味が成り立たなくなるとも言えるということ。
当時の僕は、自分の中で唯一自信を持って誇れるものを失う気がして、とても落ち込みました。
自分が自分じゃなくなるような気がして怖かった
当時僕は12歳で、時期が時期だったのでとても繊細だったのかもしれません。
思春期という時期で、僕は自分が自分じゃなくなるような気がして怖かったんですね。
そして、名前に誇りがあったことから、自分は父さんの家を継がなくてはいけないという責任もいつのまにか持っていました。
この時期はそういった葛藤から、とても苦しい思いをしました。
学校生活も全く楽しくなかったので、その頃初めてうつっぽい症状を自覚したのを覚えています。
とにかく、自分が何者かいまいちわからなかった僕が、唯一持っていた目標みたいなものを失うことでなおさらわからなくなるのが怖かったんです。
僕は自分がどうなってしまうのか、怖くて仕方がなくなりました。
新しい名前での人生がスタート
両親が離婚して、中学に入学して名前が変わりました。
実際に名前が変わってからも、自分の新しい呼ばれ方に違和感を感じながらいました。
自分が何者かわからないまま、つまらない学校生活をボーっと過ごして、毎日うわのそらな生活という感じでした。
でも、そのうち分かってきたことがあったんです。
あれ? 思いの外何も変わらなかった
実際名前が変わるのは最後まで抵抗はありました。
ただ、名前が変わっても、当然現実には何も起こりません。
ただ、何も起こりませんが、考え方が大きく変わりました。
「自分は◯◯家の人間だ!」
と名前にこだわることで家にもこだわっていたのが、その頭の中の制限が取れて考え方が柔軟になったんですね。
僕は、名前が変わったことをきっかけに、こう思うようになります。
- 家系とか苗字とか関係ない、自分は自分だった。
- 名前なんて誰が誰かわかるようにするためだけの番号みたいなもんだろ。
まぁ、言い過ぎかもしれないんですけど、実際そう思ったんですよね。
要は、自分の中で納得できる点を見つけられたということです。
何よりその時思ったのは、
- 名前なんてのあと付けでつけられたものでしかないし、生まれた時からぼくは僕だ。
ということでした。
なので自分は名前を持っていても、それは整理番号のようなものを持ってるだけで、仮に名前があろうがなかろうが、
「 ぼく は 僕 」でしかない。
そう思えました。
つまり、名前が変わったところで、番号の訂正みたいなことが起きるだけで、ぼくは僕のままだということです。
恐怖を生み出していたのは自分だった
それで気がついたんですね、自分が持っていた恐怖は自分が生み出したものだったということに。
僕は、
「名前が変わることでの自分が自分じゃなくなってしまうかもしれない」
という恐怖を自分で生み出し、それをとても怖がっていたんです。
つまり、変化を受け入れるのが怖かったんですね。
まだ何も起こってないし、起こったら何が起こるかもわからないのに、自分の中で恐怖を作って、それを時間をかけて大きくしていたんです。
そこに、本当の恐怖はありませんでした。
あったのは、自分で生み出したはっきりとした形のないの恐怖だけでした。
それからもう一回名前が変わったけど、なんとも思わなかった
ちなみにその後、僕はもう一度名前が変わることになりました。
ただ、その時にはもう、
「別にどうでもいい」
とすら思えるようになっていました。
「だって番号みたいなもんだし。」
(※個人的見解)
そうやって思えるようになっていたことで、もう必要以上に悩むこともなくなっていたんですね。
そして、こうやって数度名前が変わったりしたので、最後には、
「ファッション感覚で名前変えてる。(笑)」
という冗談まで言えるようになりました。
まぁ実際これ冗談ではないところもあって、今僕の中ではその程度なんですよ、名前って。
まさに違う服を着る程度のものでしかなくて、
「中身は一緒なので外見なんて特別変じゃなかったらなんでもいいじゃん。」
くらいに思っています。
むしろ珍しい苗字なんかだったら、
「他の人と区別されやくなったなw」
と思うくらいです(笑)
不安や恐怖の正体はただの「思いこみ」
今お話ししたことって、全然起こりえる普通のことですし、
思春期ならではの葛藤と言えばそれまでなんですけど、
こうやって、
「自分で恐怖を生み出す」
という現象はどんな状況でも起こりがちです。
やっぱり、見えないものって怖いですよね。
先の見えない未来があるから、人は不安にかられます。
だけど、だからといってモジモジしてるだけでは、怖いものはずっと怖いままなんですよね。
本来は、正体のわからないものに恐怖を抱く意味なんてまったくないんです。
その恐怖心が、足をすくませ、自分を現状にとどめる何よりの原因です。
目に見えない恐怖の前にすると、人は立ち尽くすことしかできなくなります。
ただ、そこで力を振りしぼって前に進めば、違った景色は見えてくるはずです。
そしてその時初めて、自分が抱いていた恐怖や不安が自分の思いこみでしかなかったことに気がつくんです。
今持ってる価値観なんて捨てていけばいい
今、何もできずにいるのなら、それは思いこみにより大きくなった不安のせいでしょう。
何が起こるかわからない未来に不安を抱き、恐怖を感じているはずです。
ただ、何度も言うように、動き出せば、おのずとその先の見えなかった未来は見えてくるんですね。
だから、まず行動しましょう。
行動すれば変化は起こります。
そして、行動したあと、何が変わるかと言えば、価値観です。
これは自然と起こるものです。
そして、価値観が変われば、今まで必要以上に気にしていたことが気にならなくなります。
考え方が柔軟になれば、次に発生する問題への対応力が増し、必要以上のストレスを感じなくなります。
確かに、強烈な執着や思いこみは変わるのに時間がかかりますが、裏返えしてしまえば全く新しい価値観になるんですね。
それはまさに僕が「自分の名前は絶対変わってほしくなかった」のが、
↓↓↓
「いくら変わってもまったく気にしなくなった」ように。
そうなればこっちのもので、その先にはより生きやすくなった人生が待っています。
だから、今怖くて立ち尽くすしかない人も、思いきって動いてみて、自分の人生を変えてほしいと思います。
失敗してもまた戻ってくればいいんです。
自分の人生を変えるには、行動するしかありません。
ということで、最後にまとめますね。
- 先の見えない恐怖は思いこみにより自分が生み出したものでしかない
- 恐怖を越えて進むには、行動して変化を起こすしかない
- 変化を起こせれば、考え方は柔軟になりより生きやすい人生になる
って感じです。
今日はわりかし熱を持って書いてしまいました(笑)
それくらい伝えたかったことだったので。
行動するにはまだ怖いという方も、メルマガなど通して質問受けつけてますので、気軽にご相談ください。
それでは
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