親の離婚と向き合った苦い過去、そんな過去を肯定できる日が来るのを信じて

こんにちは、まなとです。

今回は

『親の離婚と向き合った苦い過去、そんな過去を肯定できる日が来るのを信じて』

という話です。

今回はちょっといつもと違った内容になるかもです。

僕はtwitter上でも情報発信をしているんですけど、 twitterで

「アダルトチルドレン」

という言葉を知って、 調べてみたら

「あ、これ俺じゃね??」

って思ったので、 それに関連する話です。

僕はそもそも社会不安障害という病気に苦しんでたわけなんですけど、 探してみるとなんか他の病気も当てはまる気がめっちゃするんですよね。

まず、うつ病とか絶対そうだったし、 他にも適応障害とはHSPとか…

アダルトチルドレンもその中の一つです。

で、アダルトチルドレンという意味が間違って伝わってしまってはいけないので、 ググってきました。

こんな感じです。

アダルト・チルドレン(Adult Children)とは、子どものころに、家庭内トラウマ(心的外傷)によって傷つき、そしておとなになった人たちを指します。子どものころの家庭の経験をひきずり、現在生きる上で支障があると思われる人たちのことです。

山梨県医師会

……やっぱり僕のことだ。。。

いやー、改めて自分のことだと思わされましたね。

そうです、子どもの頃のトラウマによって傷ついてるんです。

で、もうそんな傷はほぼほぼ完治しているんですけど、 精神的な病気の根本的な原因って、 幼少期の頃の闇っていうパターンはけっこー聞く気がするんですよね。最近目にとまった、

『母親が幸せなら「子どもの自己肯定感」もアップする!』

という記事を見てなおさらそう思いました。

僕は母さんが幸せそうにしてるの見た記憶あんましないですからね。

それに僕の知り合いで 奥さんとお子さん2人の家庭築いてはたから見てもすっごく幸せそうにしてる人がいて、その人は何より奥さんを大切にしているって言ってましたしね。

なんでも奥さんが家族の中心だから、奥さんが笑っていれば、家族は幸せになるとか。

なんだそれ、知らなかったぜって感じでしたねそれ聞いた時(笑)

義務教育に取り入れてほしいくらい大事なことだと思います。

で、ちょっと話はそれましたが、

とにかく僕は、子どもの頃の家庭環境は子どもの人生に大きく影響するし、精神的な不安定さを生み出すものだと思っています。

一度精神的に不安定になってしまえば、それを改善するのにかなり苦労するので、大変な人生になりますよね。

僕自身苦い経験をしたんで、真剣にそう思います。

個人的には、全責任が親にあるとまでは思いませんが、子どもの幸せも不幸も親が作るものだと思っていますから。

ということで今回は、僕の幼少期の経験を簡潔に話した上で、

そんな苦い経験はいつになったら報われるのか、そんなことをお話ししたいと思います。

以下、先に僕の子どもの頃の経験談を小話的にお話ししますね

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両親の離婚と向き合った僕の青春時代

僕は11歳の頃両親が離婚した。

それまで父と母が同じ場所にいあわせた時、なぜだかとても暗い雰囲気になっていたのを覚えているし、それが何となく嫌だった。

父は帰りが遅いので、そもそも二人はあまり同じ時間にいあわせることはなかった。

喧嘩をしていた記憶も少しあるが、まだそうやって感情が出る時はいい方で、母は普段父と話すとき何か指示を伺う召使いの様な口ぶりで話していたのを覚えている。

それが子どもの頃はなぜだかよく分からなかったし、ただやはり嫌だった。

僕には兄もいたが、兄は思春期の真っ只中で、父をうらみ反抗していた。

ある日、兄が夕食のハンバーグを食べ、その後爪楊枝で取った食べかすを用意されていた父のハンバーグになすりつけた。

僕はそれに驚いて口を挟もうとしたが、母はそんな僕を止めた。

僕には状況が把握できなかった。

家族団らんからの突然の口論

歳の頃、珍しく父と母と僕の3人で居間でテレビを見ていた時、些細なことで父と母が口論になった。

直接的な行為はなかったが、父はそれまで見たことがない位暴力的になり、僕はそれがとても怖かった。

その数日後、また両親が居間に揃っており、呼ばれた僕は、父と母が離婚することを知った。

僕は泣いてごねたが、父は離れていても父親であることは変わらないこと、家族であることは変わらないことを静かに聞かされた。

その時の父と母はとても落ち着いていた。

家から父がいなくなった日

数日後、父が家からいなくなった。

何かもの寂しくなってしまった様な家の中に僕はいた。

父の部屋を訪ねてももうそこには何もない。

そして、誰もいない。

今この家にいるのは僕と、兄と、母だけだ。

それを理解した。

そしてさらに数日経った時、ある変化に気づいた。

母の顔つきが明るくなっていたのだ。

僕はそれが嬉しかった。

父とは会うことはできたので、週末に遊びに行ったりした。

父は母より顔に出す方ではなかったので顔つきも然程変わっていなかったが、いつも通りで安心した。

僕は思った、言っていた通りだと。

父はまだ変わらず父のままだし、家族のままだ、家族でいていいんだと。

僕にはそれが嬉しかった。

二人とも離婚してからの方が明るく見えて、僕は二人が離れて良かったと思った。

知らなった父の姿と母の苦悩

数か月後、兄が父の元に行くと言い出した。

兄は自分が長男として家を継ぐという責任感を持っていたらしい。

兄は本気だった。

しかし不思議なことにその数日後、兄は態度を一変させた。

兄は再び父に対しての不満を言うようになり、父の元へ行くとはもう言わなかった。

数日後、夜道、母が運転する車の後部席で、次は僕が父の元へ行きたいと伝えた。

それには父が僕につけた名前のこともあった。

苗字と関連付けて父が考案した名前を持った僕は、苗字が変わることで自分のアイデンティティが失われるような気がしたからだ。

思春期の僕は、苗字があることで一つの意味になる名前を失うことで、自分が自分じゃなくなるような気がしてならなかったのだ。

当時自分に自信がなかった僕が唯一誇りを持っていたのが自分の名前だった。

それを失うのが怖かった。

今思えば、母は息子二人に続け様に「家を出たい」と伝えられとても悲しかったと思う。

母は僕の意思を聞いて、静かに話始めた。

父がパチンコ、ギャンブルにはまりそれにお金を使っていたことを。

そして借金を作ってもやめなかったことを。

母が幼いころの僕と兄を連れ、パチンコ屋に赴き説得を試みたことを。

そして、母はパチンコ屋の椅子に座る父を外から撮影した写真を僕に見せた。

そして僕は全てを理解した。

父と母がなぜあんなに仲が悪かったのか。

父の帰りがなぜあんなにおそかったのか。

兄がなぜ突然気変わりしたのか。

そして、父と母はなぜ離婚したのか。

母は淡々と話し続けたが、途中から僕は呆然としてしまっていた。

もう何を信じればいいのか分からなかった。

僕が出した答え

数週間後、僕は変わらず父の元に遊びに行っていた。

そして今までと変わらずどこかに連れて行ってもらったりした。

僕と父の関係はそれまでと変わらなかった。

母にはそれが意外だったかもしれない。

あの日の後、僕が出した答えは、それでも父は父であるということだった。

父は確かに母を苦しめたかもしれないが、僕にとって父は一緒に遊んでくれる大きな存在のままだった。

僕は父が嫌いになれなかった。

ある日の車の中での会話

そうして日は経って、中学二年生の中頃、僕はまた母が運転する車の後部座席に座っていた。

ありきたりな会話の中、何かをきっかけにして母が父の悪口を言い出した。

母は離婚後、ことあるごとに父の悪口を言うようになっていた。

僕はそれを聞くと黙り込んでいた。

何も言えなくなるのだ。

好きな人が好きな人の悪口を言うことには。

ただ辛く、耐えるしかなかった。

その時も同じように耐えるつもりだった。

しかし、今までの積み重なったものもあってかその時は耐えられなかった。

もう泣くような歳ではなかったが、決壊したように涙が溢れ出た。

僕は泣きながら、

「なんでそんなこと言うの。」

と一言言った。

母はハッとし、その言葉だけで全てに気づいたように

「ごめんね、お父さんはあなたにとっては大好きのお父さんだもんね。」

と言った。

僕は暫く泣き続けた。

それから母は父の悪口を一切言わなくなった。

父が母の悪口を言うことは元からなかった。

僕の中にようやく平穏が訪れた。

離婚が終わった日

数年後、僕が20を超えて既に数年が経ったある日、

どんな会話だったか覚えていないが、ある会話の流れで母は静かにこう言った。

「お母さんが本当に愛したのはお父さんだけかもしれんなぁ。」

僕はそれを聞いて、僕の中のまだわずかにモヤモヤしていたものがスーっとなくなっていくのを感じた。

こうして僕の中で、父と母の離婚は終わった。

過去に負った深い傷はいつ癒えるのか

はい、ということで、これが僕が両親の離婚と向き合った日々のお話です。

ちょっと暗い内容になってしまったかと思うんですけど、これが僕のリアルな体験談です。

一応自分の中で収拾はついてますけど、やっぱりこういう経験もあったからか子どもの頃はずっと晴れない気持ちでいましたね。

ずっと親の顔色を気にして生きてきたと言うかね、子どものくせに大胆になれなかったというか。

で、この経験って自分の人生に少なからず影響してると思うんですよね。

やっぱり子どもの頃から、周りの様子気にして、変に出過ぎたこと言わずにいましたし、自分を押し殺してきたということもあったので、
どう自分を表現したらわからなくなっていたというか。

たぶん、精神的な病気を持っている人の中には、同じような経験した方いると思います。

で、子どもの頃こういう経験ってそもそもしないのが一番いいんですけど、してしまったら中々元気ではいられない。

だからどうやって立ち上がって進んでいくかってことになるんですけど、それも一概に答えがあるわけではないんですよね。

おそらく傷つきながら成長する過程で、どこかで変化を起こさないといけない。

それができなかったらずっと苦しいままですからね。

で、今回のこのブログでは、具体的にこうしましょうっていうアドバイスは特別ないんですけど、伝わってほしいのが、

変ろうと思い続ける限り、いつかは変れる時が来る

ということです。

正直、あまり抽象的にポジティブな言葉で片付けたくはないんですけどね、飽くまで考え方の一つとして、こういう考え方があるよっていう話をちょっとしますね。

僕は、過去苦い経験はたくさんしてきましたし、後悔したことはたくさんあるんですけど、

その今まで起きた全部のこと、これを肯定してくれるのはこれからの自分だと思っています。

簡単に言ったら、結果良ければすべて良しってってことです。

例えば、今すごく苦しい状況にいて、過去を振り返って後悔ばかりしていたり、人生を悲観しているとします。

おそらく今は何も楽しくないでしょうし、人生はそんなもんなんだって諦めモードのはずです。

だけど、その後人生が変わるようなことがあって、楽しい人生を歩めるようになったら。

今までの苦い経験があったからこそその時につながったわけですから、それも必要なものだったのかな、と少なからず許せるようになってくるはずです。

その時ようやく、自分の過去を認められるようになるんですよね。

過去にあんな経験をしたから、今僕はこんなことができてるって、思えたりするんです。

だから、その時が来るまで歩みを止めちゃいけない。

諦めたら引きずってきた自分の過去は本当に報われないまま重荷になり続けます。

確かに子どもの頃に深く傷ついたのなら、マイナススタートからだから実際キツいんですけどね。

無責任でいられる子どもの頃が楽しくなかったんだから、責任を持って生きなきゃいけないこれからの人生に期待できないのは当然ですよね。

けど、後ろばかり向いてはいられない。

だから、いくら険しい道のりでも、歩みを止めちゃいけない。

報われる日はいつ来るかなんてわかりませんが、その日が来たら、過去の全てを肯定できるようになるはずですから。

これからの自分を支えてくれるのは過去の自分だけであり、過去の自分に意味を与えてくれるのはこれからの自分だけですから。

だから、歩みを止めず、今日を一生懸命生きましょう。

ということで今回は、

『親の離婚と向き合った苦い過去、そんな過去を肯定できる日が来るのを信じて』

というテーマでお話ししました。

僕もいつか自分の過去の全てを肯定できる日を追って歩んでいる真っ最中ですが、がんばっていきましょう。

それでは

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この記事を書いた人

はじめまして、よしです。

僕は小さな頃から極度のあがり症で、とにかく注目されるのが怖くて、日の当たらない生活を送ってきました。

社会人になり警察官になってからは症状が悪化してついには社会不安障害を発症し、苦痛な日々を過ごしました。

人目に出るのが怖い、
上司を話すとき頭が真っ白になる、
電話すらまともに出られない。

そんな警察官として致命的な症状が出た僕は、仕事でも失敗ばかりを繰り返し、最終的には警察官をやめざるをえませんでした。

そんな僕が、正しい向き合い方を知り、それを実践したことで、退職後3ヶ月のうちに社会不安障害を克服できました。

このブログでは、僕と同じ悩みを持っている方や、あがり症や社会不安障害を改善したいと願っている方の助けに少しでもなるように、
あがり症や社会不安障害を克服するための知識や情報を、自身の過去の経験を交えて発信していきます。

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