『やりたいことができない辛さ』そんな兄の辛さを知って。

こんにちは、まなとです。

今回は

『やりたいことができない辛さ』

というテーマでお話しします。

最近、こうやって社会不安障害に関する情報発信をしていると、どうしても社会不安障害に悩んでいた過去の記憶がよみがえります。

あの時は苦しかったなー。

って言えばそれまでなんですが、なにが一番辛かったかって、やっぱり、「やりたいことができない辛さ」だと思うんですよね。

なんと言うか、

俺はこれがしたいのに、なんでできないんだ!

させてくれないんだ!

っていう感じの。

そしてそれがしっかり自分で自覚できてしまうのが辛いんですよね。

そんなことをなんとなく思い出しました。

なので、今日は僕がそれを強く思うようになったきっかけをお話ししようと思います。

今回は小話なので、たんたんと書いていきますね。

contents

社会不安障害と診断された日、僕が思ったこと

僕が、自分が社会不安障害と知ったのは、警察官になり、現場に出て半年がたった頃だ。

警察官になった当時の僕は、期待に胸を躍らせ、警察学校をくぐった。

厳しい環境ではあったがなんとかうまくやっていたのだが、警察学校在学中自分の中に違和感を感じるようになった。

例えば、

  • 人前に出るのが怖い
  • 人の目がやたら気になる
  • 人に説明する場面で声が思うように出ない
  • 電話に出るのが怖い、出ても声が小声になってしまう
  • 上司と話すとき頭が真っ白になってとんちんかんなこと言ってしまう

こういった症状が出たからだ。

正直言うと、こういった症状は警察官になる前から感じていたし、そのせいで高校を卒業するまでの僕の青春時代はたいしたものにはならなかった。

学校というものにあきあきしていたからこそ、むしろ社会人に早くなりたかったのだが、なったらなったで今挙げた症状をごまかせなくなってきたのだった。

警察学校ですらごまかせなくなってきていたので、現場に出てからはなおさらだった。

症状が出るせいで失敗は繰り返すし、そのせいで毎日先輩上司にこっぴどく怒られた。

(なんでこんな簡単なことができないんだろう……。)

(クソ、クソ、クソッ……!)

そう思うばかりの毎日だった。

そして現場に出て半年が過ぎた頃、この自分の中にある違和感の正体を知りたくて、初めて精神科に行った。

そこで言い渡されたのが、

社会不安障害』

だった。

病院の先生が挙げた症状は、全て自分にあてはまったのだ。


ただ正直、それを聞いて僕は安心した。

なぜならこれがれっきとした病気であるとわかったからだ。

病気ではなくて性格の問題だったりしたら治せない。

けど、病気なら治せる。

そんな希望が持てたからだ。

そして、その次に思い出したのは、僕の兄のことだった。

ある日、兄が泣き叫んだ理由

僕の家族は3人だった。

僕と、母親と、兄の3人。

あとはペットのチワワが一匹。

父親は僕が中学生になる頃、母と離婚して家を出た。

それから3人と1匹の家族になったのだが、それなりに平和に暮らしていた。

そんなある日のこと。

家で兄が泣き叫んでいるのを聞いた。

僕は驚いた。

なぜなら兄は感情を表に出すタイプではなかったし、泣くことなんてもってのほかだったからだ。

僕は母に理由を聞きに行った。

そして母は答えた。

兄は高機能自閉症だった。

そして兄が高校生にもなっていたので、

それを伝えたのだと。

ちなみに高機能自閉症といのは、今でいう発達障害のことだ。

知能は他人ひとに劣らないが、

  • 対人関係の問題
  • 強いこだわりがある
  • 言葉の使い方のあやまり
  • 不器用で運動ができない

など、自閉症の症状が見られる障害だ。

僕は母の言葉を聞いて、

(え…?)

と思ったが、その後、納得するまでに時間はかからなかった。

なぜなら僕自身、兄のふるまいをずっと見てきて、なんとなく違和感を感じていたからだ。

「変なお兄ちゃん。」

例えば、これは僕が小学生低学年の頃。

兄と僕はもちろん同じ小学校で、集団登校も一緒な班だった。

もちろんそれは普通のことだが、少し他の友達と違ったのが、

兄は学校で僕とまったく関わろうとしなかったことだ。

友達を見ていると、お兄ちゃんやお姉ちゃんがたまにからんできたりして一緒にじゃれていたのだが、僕たち兄弟に限ってそれがまったくなかった。

それどころか、兄は学校で僕を見るとすぐ走り去ってしまうのだ。

一度掃除場が隣だった頃もあったが、掃除が終わるチャイムが鳴ると、兄はいちもくさんに走って教室に戻っていった。

「変なお兄ちゃん。」

なんとなくそう思いながら、恥ずかしいだけなのかなと思っていたが、

お兄ちゃんお姉ちゃんと遊ぶ友達の姿を見てうらしましさも感じていた。

他にも、兄が使っていた絵の具道具の話もそうだ、ずっと不思議だった。

兄は、一人だけなぜか他の人と違って、デザインの古臭い絵の具道具を使っていたのだ。

それを見てなんでお兄ちゃんの絵の具だけ違うんだろう、とずっと不思議に思っていたが、その理由は僕が小学二年生の頃にわかった。

図工の授業のためクラスで絵の具を注文した時のこと。

担任の先生は僕の兄の担任もしていたそうで、思い出話を始めた。

兄が小学二年生の頃、クラスで注文した絵の具道具が2日に分けられて来ることになっていたのだが、

1日目に自分の絵の具道具が来なかったことで、兄はパニックになってしまったらしい。

先生は兄を落ち着けようとしてもダメだったので、自分の絵の具道具をあげたというのだ。

だから、僕が兄のようにパニックにならなくてよかったと冗談まじりに言った。

そういうことがあったのか、と謎が解けた記憶がまだ鮮明に思い出される。

他にも兄はキャラクターものの文具や食器を絶対使いたがらなかったし、僕が部屋でアニメを見ていると部屋に入ってこようとしなかった。

なんでそんな変なこだわりがあるんだろう、と、それも不思議に思っていた。

そんな、もろもろの記憶が、母から話を聞いた瞬間一気によみがえり、僕を納得させたのだった。

しかしこの時は、兄の辛さを想像し、理解することはまだできなかった。

雪玉の投げる兄の姿を見て

それからしばらく経った頃、確かあれは僕が中学2年生だった頃の冬の夜だ。

兄と僕は家の前で話していた。

なんの話をしていたのかは思い出せない。

ただ話の途中、兄は積もった雪を手に取り、雪玉を作って、家の道路を挟んで向かいの塀に投げ始めた。

「こうやったら、まっすぐ飛ぶんだ。」

そういう兄の目は、キラキラしていた。

雪玉を作っては、塀に向かって投げる兄。

僕はしばらくながめていたが、次第にとても悲しくなってきた。

なぜなら兄の投げる雪玉はまっすぐ飛んでいなかったからだ。

しかも素人の僕でわかるくらい、雪玉を投げる兄のフォームは力んでおりぎこちなかった。

あれじゃうまく飛ぶはずがない。

ただ、兄が試していたのは買ってきた野球の本を読んで参考にしたものだったし、間違ったことをやろうとしていたわけではなかった。

ただ、できなかっただけなのだ。

それをやろうとしても、体がうまく動かせないからだ。

運動神経が悪いのとはまた違う、ただ、兄は走り方もそうであったし、何をやるにしても必要以上に力が入ってしまい、ぎこちなくなってしまうのだ。

自分の思うように体が動かない、やりたいことができない辛さと、それを自分自身が理解できてしまうこと。

それがいかに辛いことか。

僕は悲しくなり、自然と涙が出た。

そして兄と同じように雪玉を作って、わざと塀の下の方に投げた。

「あれ、うまく飛ばないや。。」

そう言いながら、懸命に雪玉を投げ続ける兄の隣で、僕も一緒に雪玉を投げ続けた。

やりたいことができない兄

僕は兄のそういうところが好きだった。

年齢とか、経験とか、そういうことは関係なしに、興味を持ったものをとりあえずやってみるところ。

中学を卒業する頃は、バスケに興味を持ちバスケの本とバスケットボールを買ってきて一人ドリブルの練習をしていたし、高校生になってからは野球に興味を持って、同じように本を買ってきて投球フォームを練習していた。

それだけの積極性が僕にはなかったし、年齢とか才能を考えてすぐあきらめてしまうのが僕だったので、当時の僕からしたら兄は無鉄砲にも見えたが、反対に自分にない「とりあえず好きなことをやってみる姿勢」は、理解しがたくもとてもキラキラして見えた。

そんな兄の姿が好きだった。

だけど、兄はその不器用さから、やることなすこと大体うまくできず、ぎこちなくなってしまう。

しかも、普通の自閉症とは違い、本人がそれを理解できてしまうのだ。

それはまるで一生取れないクサリを体中に巻きつけているようなものだろう。

本人にとってとても辛いことのはずだ。

だから、僕はそんな兄の姿を見て、とても気の毒に思っていた。

誰かに邪魔されるでもない、何かに拘束されるわけでもない。

それなのに、自分の意思のとおりに、

「やりたいことができない。」

その辛さは、僕には想像できないものだと思っていた。

兄の痛みを知ってから

それから、数年が経って、ある日、僕は社会不安障害と告げられた。

病気なら治せるという希望と共に思い出されたのが、兄との記憶だった。

やりたいことができない辛さ。

それを想像して、僕はあの時、

兄に同情してしまった。

だから、そのつけが回ってきたんだろう。

そう思った。

自分をしばりつける見えないクサリは、そう簡単に取れるものではない。

そう覚悟して、僕は社会不安障害と共に警察の仕事を続けたが、警察官という夢の職についておきながら、警察官として一人前に働けないというもどかしさを感じることになった。

夢の場所にいながら、夢を叶えられていない矛盾。

そのギャップに激しく苦しんだ。

その度に、

(クソッ、なんでこんなことができないんだ……!)

と自分を責め、全てが嫌になった。

そして最後には、夢を終わらせ、警察官をやめることにした。

その後、警察官をやめてからの僕は、社会不安障害を早い段階で克服できて、わりと満足できる生活を送れている。

社会不安障害に悩んでいた頃、誰でもできるような当然のことを自分だけができない、

自分がやりたいと思っていてもうまくできないという経験を何度もすることになったが、

今では自分ができることをしっかりこなしながら生きていく人生を送れている。

確かにやりたいことができない、人に当たり前にできることが自分にはできないというのは、とても辛い経験だ。

だけどその反面、自分にできることは必ずある。

だからやりたいことができなかったという苦い経験も糧にして、なるべく自分がやりたいように生きていきたい。

やりたいことができない辛さも、忘れられる日が来るのを願って

はい、ということであんまり明るい話ではなかったんですけど、実際僕が強く思ってたことだったんですよね、

社会不安障害のせいで、やりたいことができない、人並みに生きれないってのは。

それがとても悔しかったし、自分はなんて恵まれていなやつだと思って、みじめになりました。

だけど、今はそう思っていません。

なぜなら自分ができることを精一杯こなして生きているからです。

「自分がやりたいこと」だった警察官をやめ、その後はっきりとした目的もなく次の道を探し始めました。

すると、自分がやりたいことではなかったかもしれないけど、自分ができることがたくさんあるんだって知れました。

それが自信になりましたし、希望になりました。

確かに障害を持っていると、自分の意思に反してできないことってあると思います。

・人前で話せない
電話で話せない
・上司とうまく話せない

周りの人が当然にできることだったらとくに辛いですよね。

だけど、自分にできることも確かにあるんです。

そして、それを知ることで、他のあることができなかった自分を許せたりします。

なので、自分が思うように生きられないというもどかしさというのはすごく理解できますが、

それが全てじゃない、あなたには他の可能性がまだあるというのを、知っていてほしいなと思います。

まぁ、今回ははっきりとしたまとめ、答えみたいなのはないんですけど、それだけ知っていていただけたら嬉しいです。(笑)

やりたいことができない辛さも、いつか忘れられるような日々を願って。

それでは

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この記事を書いた人

はじめまして、よしです。

僕は小さな頃から極度のあがり症で、とにかく注目されるのが怖くて、日の当たらない生活を送ってきました。

社会人になり警察官になってからは症状が悪化してついには社会不安障害を発症し、苦痛な日々を過ごしました。

人目に出るのが怖い、
上司を話すとき頭が真っ白になる、
電話すらまともに出られない。

そんな警察官として致命的な症状が出た僕は、仕事でも失敗ばかりを繰り返し、最終的には警察官をやめざるをえませんでした。

そんな僕が、正しい向き合い方を知り、それを実践したことで、退職後3ヶ月のうちに社会不安障害を克服できました。

このブログでは、僕と同じ悩みを持っている方や、あがり症や社会不安障害を改善したいと願っている方の助けに少しでもなるように、
あがり症や社会不安障害を克服するための知識や情報を、自身の過去の経験を交えて発信していきます。

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